日本人はなぜ(ry からフラッシュバック2005
2010年9月8日 MTG回顧 コメント (2)PTアムステルダムでの日本勢は不調だった模様。
んでカバレッジにてフィーチャーされている件の反省記事。
結構面白い試みの記事かな~と個人的に思ったり。やや大げさかな、とも思うけど。
まぁ今回は新環境エクテンってことで苦労があったようで。
一応当方も2005年あたりに似たようなことを経験したような気がしないでもないのでちょびっと振り返ってみようかな、と。
自分の時はラヴニカが入って、テンペスト・ブロック、ウルザ・ブロック、マスクス・ブロックがごっそり落ちるってな新環境。6版も落ちるから、黒チューターが使えなくなるので、前シーズンでお気に入りだったMacey Rock(京都迷宮案内)は使えない。
そんな中で誰でも思いつくであろう新環境での筆頭メタは親和ってトコからスタート。
あとは既存のデッキから新環境にあまり影響がなさそうなマッドネスとかサイカあたりを組んで回しておりました。
折角ラヴニカが加入したのだから、新たなシステム内臓のデッキを目指しても良かったのだけれど、調整協力を要請したメインのお二方からは
『おまいマジックへたすぎ。んなことやってる場合じゃねーから』(大意)
ってな説得っつーか説教されてションボリw
結局既存のデッキを回してはプレイングミスをひたすら指摘されつつ凹み続ける日々なのでありました。
今だから言ってしまおう。
ぶっちゃけ、ツラかった。マジックしてるのがwwwwwwwwww
『ガチンコ』でマジックやるには『基礎マジック力』が必要。
だけどそいつが相当足りてなかった自分は、そのことを身をもって知らされてしまったので、こんな自分じゃPTで通用するわけないよ・・・などと、なんともびっくりな『肝心の渡米前に”諦め”混じり』でマジックをやっている状態に陥ってしまいましてw
そんなわけでガチ競技マジックの壁に見事ブチ当たった自分は「この先に新たなステージが待っている!!」などと鼻息荒く突進するでもなく、それまでの状態のまま海を渡ってしまった次第。
これ即ち、『26未満』と申しますw
初の海外旅行先では空前の《Kataki, War’s Wage / 戦争の報い、禍汰奇》ブームで、そんな中へ鉄工所(超簡単カスタム型)で突撃しちゃった当方は2-6などというご覧の有様w
鉄工所の選択理由は、開発者直伝ってな側面もあったけど『とりあえずコンボぶっぱ』で渡り合うしかねーべってな後ろ向きな理由だったりもした。
ターボバランスにすらサイドからカタキが入ってくるとかもうね・・・
んでこれまた今更だけど、一番最初に自分が考えた新環境エクテンデッキはナヤカラーのビートダウンだった。WGとWRのギルランが登場してたしね。んで軽い生物突っ込んで、ついでにボロスの速太刀と十手~みたいなやつ。『遅すぎるダロ』と一刀両断されたけど、真面目に掘り下げたらもうちょっと向こうで楽しめてたかも知れないな、とか。本番会場でローリーさん達が使ってたボロスデックウィンを見たときは、「これが完成系かー」と素直に尊敬してたっけ。
まぁそんな自分の過去話はどうでもよくてw
PTは競技マジックでの最高位ステージです。
ましてやフォーマットが新環境となれば、ガチ度に加えて質も問われてくる。
2005年のPTロスにおいてはTOP8に日本人3人入っていたことを考えると、今回はどーしちゃったワケ?的な部分はあるかもしれないけれども。
件の記事に出てくるトッププロでもなんでもない、ちょこっとそっちの世界を覗いたことがあるだけの人の経験から言いますと。
上でも挙げた通り、26未満な輩が新環境に向けてしっかりとした調整から本番へと繋げるのはかなり難易度が高かった。理由としてはエクテン環境を理解をする(何せ調整開始前まではPTQフォーマットに全力投球していた)のに時間がかかりすぎたから。既存デッキの動きや戦い方を覚えるのに必死になってしまってはとてもその先へ行けなかった。
・・・まぁこんなにレベル低かったのは俺くらいじゃないか、とは思うけどねw
実力の足りない部分は識者に頼って補う。一応、その体制は小規模ながら構築してた。
平日仕事終わってから車でカシマ拾って所沢のKさん家行ってー、シャトレーゼで買ったケーキ食いながら・・・ってそんな話はどうでもよくw
ただ、コミニティを構築したとしても、その水準を引き上げる努力が必要不可欠なわけでして。まぁ、ぱっと思いつきそうなのは、他コミニティとの連携ですわな。情報収集ってのもあるけど、それはひとまず置いておく。
それには当然「人脈」が必要だった。
人見知り&卑屈キャラな自分は人脈を広げるという努力を怠っていて、それが大きなネックとなっていたのは言うまでもない。
とは言え、少ないながらも仲間はいたわけだから、なりふり構わずもっと頼っておけば良かったとも思う。チタンやトーナくん達にね。
更に言えば、高いモチベーションを持ち合わせているなら、強いコミニティに対して門を叩くくらいはできるのではないかと思う。
自分の場合だったら、繋がりのあったKJくんやユンくんを頼ってトモハルプロ達に意見や助言を求めたって良かったはずだ。
結局トモハルプロとはPT2日目夜にダウンタウンの店でユンくんと一緒にタコス食ったことくらいしか繋がりができなかったし・・・って全然マジックと関係ねえwww
当時初めてのPT参戦という同じ立場ながら抜群に高いモチベーションでプロ達へとぶつかっていった人物はやはりというか今現役プロとして活躍しているわけで。
あんちゃん氏だね。KJくんから「昔の僕みたいなヤツがいるんですよー」って嬉しそうに言ってたのが印象に残ってる。カワサキ氏はなんであんちゃん氏のコメント入れなかったの?今回のネタで今後PTを目指す人たちへ向けて俺なんかとは比較にならない良意見が出てくると思うんだけどw
まぁ結局のところ、今回の敗因のひとつにプロ界隈のコミニティにやや停滞感があったのかな?と勝手に想像してみる。個々の資質は変わらず高水準にあるわけだから、あとは互いの環境をより良くする努力があればどうにかなるんじゃないかな?と思うんだな。
とりあえず千葉の前だし、そういうのが再確認できたんなら良かったのではないかと。
んで、かくいう俺は現在レガシーを全力で楽しめる環境が出来ていると思う。
エタフェスもあるし、その先にいつかやってくる(きてほしい)レガシー国内GPへと続いていくハッピーを今後も続けていきたいな。
おしまい
んでカバレッジにてフィーチャーされている件の反省記事。
結構面白い試みの記事かな~と個人的に思ったり。やや大げさかな、とも思うけど。
まぁ今回は新環境エクテンってことで苦労があったようで。
一応当方も2005年あたりに似たようなことを経験したような気がしないでもないのでちょびっと振り返ってみようかな、と。
自分の時はラヴニカが入って、テンペスト・ブロック、ウルザ・ブロック、マスクス・ブロックがごっそり落ちるってな新環境。6版も落ちるから、黒チューターが使えなくなるので、前シーズンでお気に入りだったMacey Rock(京都迷宮案内)は使えない。
そんな中で誰でも思いつくであろう新環境での筆頭メタは親和ってトコからスタート。
あとは既存のデッキから新環境にあまり影響がなさそうなマッドネスとかサイカあたりを組んで回しておりました。
折角ラヴニカが加入したのだから、新たなシステム内臓のデッキを目指しても良かったのだけれど、調整協力を要請したメインのお二方からは
『おまいマジックへたすぎ。んなことやってる場合じゃねーから』(大意)
ってな説得っつーか説教されてションボリw
結局既存のデッキを回してはプレイングミスをひたすら指摘されつつ凹み続ける日々なのでありました。
今だから言ってしまおう。
ぶっちゃけ、ツラかった。マジックしてるのがwwwwwwwwww
『ガチンコ』でマジックやるには『基礎マジック力』が必要。
だけどそいつが相当足りてなかった自分は、そのことを身をもって知らされてしまったので、こんな自分じゃPTで通用するわけないよ・・・などと、なんともびっくりな『肝心の渡米前に”諦め”混じり』でマジックをやっている状態に陥ってしまいましてw
そんなわけでガチ競技マジックの壁に見事ブチ当たった自分は「この先に新たなステージが待っている!!」などと鼻息荒く突進するでもなく、それまでの状態のまま海を渡ってしまった次第。
これ即ち、『26未満』と申しますw
初の海外旅行先では空前の《Kataki, War’s Wage / 戦争の報い、禍汰奇》ブームで、そんな中へ鉄工所(超簡単カスタム型)で突撃しちゃった当方は2-6などというご覧の有様w
鉄工所の選択理由は、開発者直伝ってな側面もあったけど『とりあえずコンボぶっぱ』で渡り合うしかねーべってな後ろ向きな理由だったりもした。
ターボバランスにすらサイドからカタキが入ってくるとかもうね・・・
んでこれまた今更だけど、一番最初に自分が考えた新環境エクテンデッキはナヤカラーのビートダウンだった。WGとWRのギルランが登場してたしね。んで軽い生物突っ込んで、ついでにボロスの速太刀と十手~みたいなやつ。『遅すぎるダロ』と一刀両断されたけど、真面目に掘り下げたらもうちょっと向こうで楽しめてたかも知れないな、とか。本番会場でローリーさん達が使ってたボロスデックウィンを見たときは、「これが完成系かー」と素直に尊敬してたっけ。
まぁそんな自分の過去話はどうでもよくてw
PTは競技マジックでの最高位ステージです。
ましてやフォーマットが新環境となれば、ガチ度に加えて質も問われてくる。
2005年のPTロスにおいてはTOP8に日本人3人入っていたことを考えると、今回はどーしちゃったワケ?的な部分はあるかもしれないけれども。
件の記事に出てくるトッププロでもなんでもない、ちょこっとそっちの世界を覗いたことがあるだけの人の経験から言いますと。
上でも挙げた通り、26未満な輩が新環境に向けてしっかりとした調整から本番へと繋げるのはかなり難易度が高かった。理由としてはエクテン環境を理解をする(何せ調整開始前まではPTQフォーマットに全力投球していた)のに時間がかかりすぎたから。既存デッキの動きや戦い方を覚えるのに必死になってしまってはとてもその先へ行けなかった。
・・・まぁこんなにレベル低かったのは俺くらいじゃないか、とは思うけどねw
実力の足りない部分は識者に頼って補う。一応、その体制は小規模ながら構築してた。
平日仕事終わってから車でカシマ拾って所沢のKさん家行ってー、シャトレーゼで買ったケーキ食いながら・・・ってそんな話はどうでもよくw
ただ、コミニティを構築したとしても、その水準を引き上げる努力が必要不可欠なわけでして。まぁ、ぱっと思いつきそうなのは、他コミニティとの連携ですわな。情報収集ってのもあるけど、それはひとまず置いておく。
それには当然「人脈」が必要だった。
人見知り&卑屈キャラな自分は人脈を広げるという努力を怠っていて、それが大きなネックとなっていたのは言うまでもない。
とは言え、少ないながらも仲間はいたわけだから、なりふり構わずもっと頼っておけば良かったとも思う。チタンやトーナくん達にね。
更に言えば、高いモチベーションを持ち合わせているなら、強いコミニティに対して門を叩くくらいはできるのではないかと思う。
自分の場合だったら、繋がりのあったKJくんやユンくんを頼ってトモハルプロ達に意見や助言を求めたって良かったはずだ。
結局トモハルプロとはPT2日目夜にダウンタウンの店でユンくんと一緒にタコス食ったことくらいしか繋がりができなかったし・・・って全然マジックと関係ねえwww
当時初めてのPT参戦という同じ立場ながら抜群に高いモチベーションでプロ達へとぶつかっていった人物はやはりというか今現役プロとして活躍しているわけで。
あんちゃん氏だね。KJくんから「昔の僕みたいなヤツがいるんですよー」って嬉しそうに言ってたのが印象に残ってる。カワサキ氏はなんであんちゃん氏のコメント入れなかったの?今回のネタで今後PTを目指す人たちへ向けて俺なんかとは比較にならない良意見が出てくると思うんだけどw
まぁ結局のところ、今回の敗因のひとつにプロ界隈のコミニティにやや停滞感があったのかな?と勝手に想像してみる。個々の資質は変わらず高水準にあるわけだから、あとは互いの環境をより良くする努力があればどうにかなるんじゃないかな?と思うんだな。
とりあえず千葉の前だし、そういうのが再確認できたんなら良かったのではないかと。
んで、かくいう俺は現在レガシーを全力で楽しめる環境が出来ていると思う。
エタフェスもあるし、その先にいつかやってくる(きてほしい)レガシー国内GPへと続いていくハッピーを今後も続けていきたいな。
おしまい
サイタマとマジックと僕 その4
2009年2月14日 MTG回顧 コメント (3)※前日記の続きです。・・・よしどうにか繋がったなw(独り言
2002年から2003年のエクテンシーズンにおいてコミヤマ、カシマ、KJと次々に知り合いが活躍していくのを割と近くで眺めていただけの村人な自分。そりゃま~~~、思うところは色々あったわけです。9841!と地団太をただ踏むのもはばかれてしまうくらい、マジックへの情熱も、練習量も、そしてそこから導かれる実力も彼らからは大きく劣っていたわけですから。
社会人じゃけんのー、マジックに使える時間は自ずと限られてくるんじゃー。
てのを言い訳にするのはなんだか負け犬宣言に感じたのでひたすら自分の実力の無さを責め続けてました。んでこうして現在の卑屈スタイルが身についていったわけですねwww
いやもう下手な自分がわかりきってるのに自分の右手力(これは自他共に認めているw)を揶揄されちゃうとも~~~頭にキちゃって仕方が無かった。「てめーらスロも打ったこともねぇ連中が確率を語ってるんじゃねーよタコ!!たかだか1/60なんざなぁ、引けるときは引けるんだよコノヤローwwwwwww」と頭の中で吠えながら顔真っ赤にしてだんまり決め込む年長者はさぞやキモかったことでしょうw
2003年あたりになると仕事への慣れとか、やっぱマジック基本から叩き込まないと上手くなるわけない罠・・・などとエクテン以外に手を広げ始めていました。アンタップに入り浸っていた頃が一番マジックを幅広くやっていた頃かもしれません。この頃にFNMでトーナくんと知りあったり。
2004年あたりに入るとそろそろ自分のマジックセンスへの見切りがつきはじめ、デッキが一番あとはそれを頑張ってちゃんと回せるようにいたしましょ~のスタイルへと。いいと思われるデッキへと簡単に鞍替えするようになりました。しかしデッキの習熟度を上げるためには幅広い選択肢ではどれもちゃんと使いこなせないまま『それぞれのシーズンが終わってしまう』のでシーズン初期のデッキ選択が自分にとって超重要課題に。
トップメタのデッキはだいたい最初に選択肢から除外されます。同系対決が増え、デッキの習熟度が問われるケースが増えてしまうからでした。となるとそれ以外のデッキから・・・となるわけですが、それって自らハンデを背負いこむ行為だったような気がしますw 今考えるとね。メタのトップにいるデッキは当然強いからトップなわけで。結果、下位に沈むかハマって上にいくか的なパターンを繰り返していました。そしてようやくデッキが使いこなせるようになってきたかも~?という頃にはシーズン終了、と。 切ないんだよなー、これがwww
レガシー、ひいてはエターナル環境には「シーズンの区切りがない」。これってものすっごく魅力的なんだよね。気に入ったデッキがあったら、納得がいくまで使用し続けることができる。使い続けることによってデッキの習熟度は上がるだろうし、トーナメントで勝てるようにも・・・多分なる。レガシーまじパネェwww
まぁそんな感じのサイタマに生息し続けるおっさんのマジック話はそろそろ終わりです。
2005年の神河ブロック構築でなんというか念願のPTQ突破。この頃はいわゆるマジックプレイヤー層の空洞化が出来あがっていまして。強豪はグレイビーゲットでPTQいらず、普通に楽しむプレイヤーにはあちこちで週末草の根トーナメントが開催されるので気張ってPTQ参加なんぞしなくておk。そんな中での珍事だったわけですね。決勝の3本目は個人的ベストマッチ。相手の死蔵つきコクショーが止まらずここで何かしないと返しで負けってな場面でコマ使って覗いた3枚目がゴドー。十手ひっぱってきて逆転、とw
突破後は当時同人にかまけてマジックしていない某氏に突破報告&デッキはコレって渡して「これでPTQ出てみてクダサイヨーw」などと気楽に貸したら一発突破。なんだそりゃ~~~~!?!?
んで某氏と当時すっかりMMO住人だったカシマを引っ張って新環境エクテンPTへの練習開始。・・・とここでの話はやめておきます。つか、ここでPTプレイヤーを目指すマジックは諦めました。
KJくんがPTあとのGP北九州で優勝。自分はPTで2-6の日本人最下位乙orz
2006年。同人ゲーム作ってマシタ。あ、そうだ。
ALMCのTOP8プロフィール記入シートに「マジック以外でのおもな”実績”を教えてください」って書いてあったよね?実績。だからネタのつもりではっちゃけたのに、カバレッジには戦績ときたw なんだよもー罠かよ!!
・・・いや確かに「戦績」といえなくもなかったんだがなorz
うん、所詮同人ゲームサークルのリーダーなんざ絵描きのm・・・おっと誰かきたようだ
まぁこんな感じでマジックとか色々と燃え尽きちゃった関係もあり引退状態だったのだけれど(加えて次のエクテンシーズンがウィザーズの調整により大幅にズレたこともあった)たまたま温泉でマジックの話をしていたらコミヤマに「エクテンよかレガシーのが楽しいよ」と言われて関心を持ち、現在に至る、と。
お、ようやくまとまったか?w
いや最後に宣伝。
きたる3/8(日)に埼玉県の「川越市で最後となる」龍王戦が行われます。
http://82835.diarynote.jp/200902140631372468/
決勝ラウンドありで賞品にアンシーだって。お、頑張ってるじゃんか主催w
えっとですね、前々回AMC蹴っ飛ばして参加した朝霞台では参加者6名。んで前回GPT川崎の裏で行われた時は4名って感じでして。いや、ほんとはあと1名増えるはずだったんです。ドレッジ使うヤツが。ですがあのやろう主催を会場まで車で送り届けた(エライ)あとレガシー開催まで暇だーつってスロ打ちにいったまま戻ってきやがらねーでやんの。
あー・・・んーっと、その、皆さんどうか川越まで足運んでくださいwwwwwww
PT京都の翌週だけど!燃え尽きちゃってるかもしんないけど!どーかたのんマスwww
ところで俺、地元で無敵っつーか。4回やって11-1-2。
唯一の負けとかー。あー・・・なんつーの?俺リベンジするし?こねーならもう負けイヌよぶから。んじゃソコントコ、4・6・4・苦ゥッ☆★☆
最後に精一杯卑屈キャラが吠えたてたところでオシマイ
2002年から2003年のエクテンシーズンにおいてコミヤマ、カシマ、KJと次々に知り合いが活躍していくのを割と近くで眺めていただけの村人な自分。そりゃま~~~、思うところは色々あったわけです。9841!と地団太をただ踏むのもはばかれてしまうくらい、マジックへの情熱も、練習量も、そしてそこから導かれる実力も彼らからは大きく劣っていたわけですから。
社会人じゃけんのー、マジックに使える時間は自ずと限られてくるんじゃー。
てのを言い訳にするのはなんだか負け犬宣言に感じたのでひたすら自分の実力の無さを責め続けてました。んでこうして現在の卑屈スタイルが身についていったわけですねwww
いやもう下手な自分がわかりきってるのに自分の右手力(これは自他共に認めているw)を揶揄されちゃうとも~~~頭にキちゃって仕方が無かった。「てめーらスロも打ったこともねぇ連中が確率を語ってるんじゃねーよタコ!!たかだか1/60なんざなぁ、引けるときは引けるんだよコノヤローwwwwwww」と頭の中で吠えながら顔真っ赤にしてだんまり決め込む年長者はさぞやキモかったことでしょうw
2003年あたりになると仕事への慣れとか、やっぱマジック基本から叩き込まないと上手くなるわけない罠・・・などとエクテン以外に手を広げ始めていました。アンタップに入り浸っていた頃が一番マジックを幅広くやっていた頃かもしれません。この頃にFNMでトーナくんと知りあったり。
2004年あたりに入るとそろそろ自分のマジックセンスへの見切りがつきはじめ、デッキが一番あとはそれを頑張ってちゃんと回せるようにいたしましょ~のスタイルへと。いいと思われるデッキへと簡単に鞍替えするようになりました。しかしデッキの習熟度を上げるためには幅広い選択肢ではどれもちゃんと使いこなせないまま『それぞれのシーズンが終わってしまう』のでシーズン初期のデッキ選択が自分にとって超重要課題に。
トップメタのデッキはだいたい最初に選択肢から除外されます。同系対決が増え、デッキの習熟度が問われるケースが増えてしまうからでした。となるとそれ以外のデッキから・・・となるわけですが、それって自らハンデを背負いこむ行為だったような気がしますw 今考えるとね。メタのトップにいるデッキは当然強いからトップなわけで。結果、下位に沈むかハマって上にいくか的なパターンを繰り返していました。そしてようやくデッキが使いこなせるようになってきたかも~?という頃にはシーズン終了、と。 切ないんだよなー、これがwww
レガシー、ひいてはエターナル環境には「シーズンの区切りがない」。これってものすっごく魅力的なんだよね。気に入ったデッキがあったら、納得がいくまで使用し続けることができる。使い続けることによってデッキの習熟度は上がるだろうし、トーナメントで勝てるようにも・・・多分なる。レガシーまじパネェwww
まぁそんな感じのサイタマに生息し続けるおっさんのマジック話はそろそろ終わりです。
2005年の神河ブロック構築でなんというか念願のPTQ突破。この頃はいわゆるマジックプレイヤー層の空洞化が出来あがっていまして。強豪はグレイビーゲットでPTQいらず、普通に楽しむプレイヤーにはあちこちで週末草の根トーナメントが開催されるので気張ってPTQ参加なんぞしなくておk。そんな中での珍事だったわけですね。決勝の3本目は個人的ベストマッチ。相手の死蔵つきコクショーが止まらずここで何かしないと返しで負けってな場面でコマ使って覗いた3枚目がゴドー。十手ひっぱってきて逆転、とw
突破後は当時同人にかまけてマジックしていない某氏に突破報告&デッキはコレって渡して「これでPTQ出てみてクダサイヨーw」などと気楽に貸したら一発突破。なんだそりゃ~~~~!?!?
んで某氏と当時すっかりMMO住人だったカシマを引っ張って新環境エクテンPTへの練習開始。・・・とここでの話はやめておきます。つか、ここでPTプレイヤーを目指すマジックは諦めました。
KJくんがPTあとのGP北九州で優勝。自分はPTで2-6の日本人最下位乙orz
2006年。同人ゲーム作ってマシタ。あ、そうだ。
ALMCのTOP8プロフィール記入シートに「マジック以外でのおもな”実績”を教えてください」って書いてあったよね?実績。だからネタのつもりではっちゃけたのに、カバレッジには戦績ときたw なんだよもー罠かよ!!
・・・いや確かに「戦績」といえなくもなかったんだがなorz
うん、所詮同人ゲームサークルのリーダーなんざ絵描きのm・・・おっと誰かきたようだ
まぁこんな感じでマジックとか色々と燃え尽きちゃった関係もあり引退状態だったのだけれど(加えて次のエクテンシーズンがウィザーズの調整により大幅にズレたこともあった)たまたま温泉でマジックの話をしていたらコミヤマに「エクテンよかレガシーのが楽しいよ」と言われて関心を持ち、現在に至る、と。
お、ようやくまとまったか?w
いや最後に宣伝。
きたる3/8(日)に埼玉県の「川越市で最後となる」龍王戦が行われます。
http://82835.diarynote.jp/200902140631372468/
決勝ラウンドありで賞品にアンシーだって。お、頑張ってるじゃんか主催w
えっとですね、前々回AMC蹴っ飛ばして参加した朝霞台では参加者6名。んで前回GPT川崎の裏で行われた時は4名って感じでして。いや、ほんとはあと1名増えるはずだったんです。ドレッジ使うヤツが。ですがあのやろう主催を会場まで車で送り届けた(エライ)あとレガシー開催まで暇だーつってスロ打ちにいったまま戻ってきやがらねーでやんの。
あー・・・んーっと、その、皆さんどうか川越まで足運んでくださいwwwwwww
PT京都の翌週だけど!燃え尽きちゃってるかもしんないけど!どーかたのんマスwww
ところで俺、地元で無敵っつーか。4回やって11-1-2。
唯一の負けとかー。あー・・・なんつーの?俺リベンジするし?こねーならもう負けイヌよぶから。んじゃソコントコ、4・6・4・苦ゥッ☆★☆
最後に精一杯卑屈キャラが吠えたてたところでオシマイ
サイタマとマジックと僕 その3.5
2009年2月13日 MTG回顧※前日記の続きです。
2000年冬にエクテンをきっかけにして徐々にカードを触る時間を増やしていった当時の自分なのですが、やっぱり完全復帰するならスタンっしょ!と息巻くもスタンのトーナメントに出るとちーっとも勝てなくなってしまっていたのでした。自分が離れていた約2年の間にすっかりトーナメントは草の根からPTQに至るまでプレイヤーの間に浸透していたわけです。つまるところプレイヤーのスキルが全体的に底上げされていた、ってことですな。
ところがこれを書いてるお馬鹿さん、こんなはずでは…っ、エクテンなら……、勝てるはず……っっ!などと実に勘違い。再就職もあったりして再びマジックから離れてしまうのでした。そんでもってエクテンシーズンに入ると再開w
この頃に出没してたのがロータス上福岡店。コミヤマが当時そこでバイトしてました。広島から戻ってきたミズイ氏と意気投合してマジックを頑張っていた彼の成果は見事PTヒューストン出場という形で結実したのでした。多分一番PTに出場するのが難しかった頃でしたから、お見事ってやつでしたね。…身内話UZEEEEですかね?すんません。
そのPTに彼が持ち込んだのが上で触れたアングリーハーミット2でした。隠遁ドルイドが非常にワルな墓地ガッチャンドクシッ!のアレです。ローリーさんの逸話が有名ですがコミヤマもまた独自に開発したこともあり、周りからは長らく「墓地で悪さする人」のイメージが定着してしまったりも。で、ヤツってば最近ドレッジ使ってアレですからもう実にアレっすわー。……見てねーよな?ココwww
んでその後にいわゆるカシマフィーバーでPTサンデーの障壁をブチ破ったことから日本勢の躍進が始まった…ってのがサイタマ連中の共通認識なように思うのですが、ここらへんはより詳しい人が多そうなのでこのへんくらいにしとこうかと。
ちなみに自分は彼らの周りを「輝いてるジャンおまえら…!うおっまぶしっ!?」などとブ~ンブ~ン飛び回ってるだけなのでした。その頃も相変わらずザコだったのですorz
そんな感じながらも徐々に現在つるんでいる方々と知り合っていき(間にロータス上福岡店からアンタップみすほ台店へと入り浸り場所が移動)2003年を迎えようとしてました。ちょうど龍王戦の準備大会に顔を出したところで当時大会の主催だった元カバレッジライターのくまと知り合い、これから始まろうとしてたエクテンについてコミヤマに話を聞いていたところで、
「こいつうちらのホープよー。センスあるぜw」
などと紹介されていた高校生ってのが、当時の愛称「タロウ」ことKJくんなのでした。
このあたりはくま編集長のマジック同人誌『じらいげん』に詳しいので興味のある方はどうぞそちらをご覧下さい(自発的宣伝
ひとまず今回はここらへんで。
一応以前に書いてた日記をリンクしといたので物好きな方はそちらをどうぞw
最初の日記がKJくんPTQ突破オメで最後がサイタママジック界最大の珍事報告で終わってるあたりなんだかなーといった感じですがw
つづく
2000年冬にエクテンをきっかけにして徐々にカードを触る時間を増やしていった当時の自分なのですが、やっぱり完全復帰するならスタンっしょ!と息巻くもスタンのトーナメントに出るとちーっとも勝てなくなってしまっていたのでした。自分が離れていた約2年の間にすっかりトーナメントは草の根からPTQに至るまでプレイヤーの間に浸透していたわけです。つまるところプレイヤーのスキルが全体的に底上げされていた、ってことですな。
ところがこれを書いてるお馬鹿さん、こんなはずでは…っ、エクテンなら……、勝てるはず……っっ!などと実に勘違い。再就職もあったりして再びマジックから離れてしまうのでした。そんでもってエクテンシーズンに入ると再開w
この頃に出没してたのがロータス上福岡店。コミヤマが当時そこでバイトしてました。広島から戻ってきたミズイ氏と意気投合してマジックを頑張っていた彼の成果は見事PTヒューストン出場という形で結実したのでした。多分一番PTに出場するのが難しかった頃でしたから、お見事ってやつでしたね。…身内話UZEEEEですかね?すんません。
そのPTに彼が持ち込んだのが上で触れたアングリーハーミット2でした。隠遁ドルイドが非常にワルな墓地ガッチャンドクシッ!のアレです。ローリーさんの逸話が有名ですがコミヤマもまた独自に開発したこともあり、周りからは長らく「墓地で悪さする人」のイメージが定着してしまったりも。で、ヤツってば最近ドレッジ使ってアレですからもう実にアレっすわー。……見てねーよな?ココwww
んでその後にいわゆるカシマフィーバーでPTサンデーの障壁をブチ破ったことから日本勢の躍進が始まった…ってのがサイタマ連中の共通認識なように思うのですが、ここらへんはより詳しい人が多そうなのでこのへんくらいにしとこうかと。
ちなみに自分は彼らの周りを「輝いてるジャンおまえら…!うおっまぶしっ!?」などとブ~ンブ~ン飛び回ってるだけなのでした。その頃も相変わらずザコだったのですorz
そんな感じながらも徐々に現在つるんでいる方々と知り合っていき(間にロータス上福岡店からアンタップみすほ台店へと入り浸り場所が移動)2003年を迎えようとしてました。ちょうど龍王戦の準備大会に顔を出したところで当時大会の主催だった元カバレッジライターのくまと知り合い、これから始まろうとしてたエクテンについてコミヤマに話を聞いていたところで、
「こいつうちらのホープよー。センスあるぜw」
などと紹介されていた高校生ってのが、当時の愛称「タロウ」ことKJくんなのでした。
このあたりはくま編集長のマジック同人誌『じらいげん』に詳しいので興味のある方はどうぞそちらをご覧下さい(自発的宣伝
ひとまず今回はここらへんで。
一応以前に書いてた日記をリンクしといたので物好きな方はそちらをどうぞw
最初の日記がKJくんPTQ突破オメで最後がサイタママジック界最大の珍事報告で終わってるあたりなんだかなーといった感じですがw
つづく
サイタマとマジックと僕 その3
2009年2月11日 MTG回顧 コメント (4)※前日記の続きです。
1999年春に大学卒業&就職して結果的にマジックを引退することに。何せ就職先は全国にチェーン展開していて自分の勤務地が新潟と山形の県境ときた。手持ちのカードを持ってはいったがデッキを回す機会は残念ながら無かった。やがて自然とマジックへの熱は消えていってしまった。
一応マジックに一区切りするにはいいタイミングでもあった。ちょうど現在の「第6版ルール」へと大きく変更されるところだったからだ。あとは・・・個人的にはMoMAやメグリムジャーといった悪しきコンボデッキが環境をのさばっていた状況にやや辟易してしまっていた・・・てのもあったかとw
で。
2000年初夏。最初の就職先を辞めプーになるwwwwww
だが、それじゃ早速マジック復帰~~とはならなかった。幾つか理由はあったのだけれど、要するにマジックの優先順位が大きく下がってしまっていたということ。もっぱらバイト&スロットで日銭を稼ぐ生活がしばらく続いた。
んで2000年の冬に「たまたま」気が向いてカードショップに足を運び(上福岡・黒田書店の・・・最上階ではない狭いデュエルスペースだった)久々にマジックを楽しんでる学生(多分J北S玉高校だろう・・・後輩だなぁ、とか思ったし)の姿を眺めた際に登場した『スタック!』なる謎ワードに激しく衝撃を受けるw ・・・・ナニソノ英語wwwwwwwww
第6版ルールの存在をとんと忘れかけていた自分には衝撃的で、しかも目の前で回しているどうやらスタンらしいデッキからは相手のエンドと共にワラワラと白い生物どもが沸いて出てくるではないか!ナニソレーキモーイwww ・・・要するにレベルだったわけだけどw
でだ。ここからがわざわざ続きモノをいきなり展開&ナニ過去バナとかしてオナッてんのwww みたいなことまでしてようやく今回言いたいことなんだけど。
マジックからしばらく離れてるとさ。ふと興味が再び湧いた時に、わかんない最新のカードとかが飛び交ってると、やっぱり「引いちゃう」んだよね。少なくとも自分はそうだった。・・・当然違うケースもあると思う。ただ、やめてしまう前の仲間連中が手引きしてくれないと、やっぱり復帰するのはキツいんじゃないかな?
それじゃあコレ書いてるヤツはどうやってマジックに復帰したワケ?ってことなんだけど、帰宅後にマジックのサイトを覗いてたら飛び込んできた「グランプリ京都」の記事を読んだことによって復帰の足がかりができたんだな。
2000年のGP京都。エクテン。優勝者はローリーさんのネクロドネイト。
そこに載ってるデッキリストを見ると、自分の知ってるカードが登場してた。98年のスタンに最も気合いが入ってた自分にとってはトレードサバイバルが馴染み深い。そしてそれのエクテンバージョンがTOP8に入っていた・・・ってのがでかかった。
「俺の好きなカードが使えるじゃん!」
思わずヤフオクで足りないパーツであるトロピーを入手。あとはショップでパーツを買い足して、シーズン最後と思しきPTQ東京へと殴りこみ。・・・6版ルールをろくすっぽ知りもしないでPTQに突っ込むとか、我ながら失笑モノだけどwww
ただ、それも仕方なかった。
だって、俺の知ってるカードを使って、誰かと対戦する機会って、その時PTQしかなかったんだよねw
とりあえずサイドでネクロドネイトをガンメタして内心すげーどきどきしながら試合に臨んだw 初戦はネクロドネイトで、途中ルール理解不足のためにIllusions of Grandeurのライフ回復を誤魔化されたものの、どうにか勝利し、2回戦で補充にボコられ、3回戦で後の06ワールド2位さんのネクロドネイトに・・・「プレイングであしらわれ」て負けた。特に2本目はガンメタサイドしただけにかなり戦える形だったところを、要所要所をピンポイントに強迫打たれてカウンターを抜かれたのが新鮮な驚きだった。・・・ぶっちゃけ単なる安全確認だったのだけどw ただ、その時の相手は高校生だったからね。「うわ今の高校生ってすげーうまいなー」と感心&9841でテンション↑したのを覚えてる。しかし次戦の地雷デッキ相手に事故って負けてむかつきドロップwww
ともあれこんな感じでマジックに復帰した次第。だから自分みたいなシチュエーションで今だったらどうだろう・・・?とか考えてしまったわけ。
んで当時のエクテンって部分がまんま今のレガシーっぽい感じじゃないかと。
ただし今だったらトーナメントがPTQだけしかない・・・のとは違って、AMCをはじめとした草の根トーナメントがあちこちで開かれている・・・・のは今のとこ関東くらいか。とにかく楽しみに来たぜ~、でウェルカムな土壌がさらに広まりつつある。
実にいいじゃん。レガシー。
自分みたいな復帰組にも、そしてフェアリーやフィッシュ(大昔回してたヨ・・・w)みたいなスタン+αで現在バリマジックやってるッス組にも受け皿があるのは、うん、最高なんじゃね?いやホント。そう思うわw
とまぁ、おのぼりサンがナニ熱くなってんすかー(笑)的にまくしたてたところでおしまいにしとけばいいとは思うんだけど、あと1回だけグダグダ続けさせてください。サーセンwww
つづく
1999年春に大学卒業&就職して結果的にマジックを引退することに。何せ就職先は全国にチェーン展開していて自分の勤務地が新潟と山形の県境ときた。手持ちのカードを持ってはいったがデッキを回す機会は残念ながら無かった。やがて自然とマジックへの熱は消えていってしまった。
一応マジックに一区切りするにはいいタイミングでもあった。ちょうど現在の「第6版ルール」へと大きく変更されるところだったからだ。あとは・・・個人的にはMoMAやメグリムジャーといった悪しきコンボデッキが環境をのさばっていた状況にやや辟易してしまっていた・・・てのもあったかとw
で。
2000年初夏。最初の就職先を辞めプーになるwwwwww
だが、それじゃ早速マジック復帰~~とはならなかった。幾つか理由はあったのだけれど、要するにマジックの優先順位が大きく下がってしまっていたということ。もっぱらバイト&スロットで日銭を稼ぐ生活がしばらく続いた。
んで2000年の冬に「たまたま」気が向いてカードショップに足を運び(上福岡・黒田書店の・・・最上階ではない狭いデュエルスペースだった)久々にマジックを楽しんでる学生(多分J北S玉高校だろう・・・後輩だなぁ、とか思ったし)の姿を眺めた際に登場した『スタック!』なる謎ワードに激しく衝撃を受けるw ・・・・ナニソノ英語wwwwwwwww
第6版ルールの存在をとんと忘れかけていた自分には衝撃的で、しかも目の前で回しているどうやらスタンらしいデッキからは相手のエンドと共にワラワラと白い生物どもが沸いて出てくるではないか!ナニソレーキモーイwww ・・・要するにレベルだったわけだけどw
でだ。ここからがわざわざ続きモノをいきなり展開&ナニ過去バナとかしてオナッてんのwww みたいなことまでしてようやく今回言いたいことなんだけど。
マジックからしばらく離れてるとさ。ふと興味が再び湧いた時に、わかんない最新のカードとかが飛び交ってると、やっぱり「引いちゃう」んだよね。少なくとも自分はそうだった。・・・当然違うケースもあると思う。ただ、やめてしまう前の仲間連中が手引きしてくれないと、やっぱり復帰するのはキツいんじゃないかな?
それじゃあコレ書いてるヤツはどうやってマジックに復帰したワケ?ってことなんだけど、帰宅後にマジックのサイトを覗いてたら飛び込んできた「グランプリ京都」の記事を読んだことによって復帰の足がかりができたんだな。
2000年のGP京都。エクテン。優勝者はローリーさんのネクロドネイト。
そこに載ってるデッキリストを見ると、自分の知ってるカードが登場してた。98年のスタンに最も気合いが入ってた自分にとってはトレードサバイバルが馴染み深い。そしてそれのエクテンバージョンがTOP8に入っていた・・・ってのがでかかった。
「俺の好きなカードが使えるじゃん!」
思わずヤフオクで足りないパーツであるトロピーを入手。あとはショップでパーツを買い足して、シーズン最後と思しきPTQ東京へと殴りこみ。・・・6版ルールをろくすっぽ知りもしないでPTQに突っ込むとか、我ながら失笑モノだけどwww
ただ、それも仕方なかった。
だって、俺の知ってるカードを使って、誰かと対戦する機会って、その時PTQしかなかったんだよねw
とりあえずサイドでネクロドネイトをガンメタして内心すげーどきどきしながら試合に臨んだw 初戦はネクロドネイトで、途中ルール理解不足のためにIllusions of Grandeurのライフ回復を誤魔化されたものの、どうにか勝利し、2回戦で補充にボコられ、3回戦で後の06ワールド2位さんのネクロドネイトに・・・「プレイングであしらわれ」て負けた。特に2本目はガンメタサイドしただけにかなり戦える形だったところを、要所要所をピンポイントに強迫打たれてカウンターを抜かれたのが新鮮な驚きだった。・・・ぶっちゃけ単なる安全確認だったのだけどw ただ、その時の相手は高校生だったからね。「うわ今の高校生ってすげーうまいなー」と感心&9841でテンション↑したのを覚えてる。しかし次戦の地雷デッキ相手に事故って負けてむかつきドロップwww
ともあれこんな感じでマジックに復帰した次第。だから自分みたいなシチュエーションで今だったらどうだろう・・・?とか考えてしまったわけ。
んで当時のエクテンって部分がまんま今のレガシーっぽい感じじゃないかと。
ただし今だったらトーナメントがPTQだけしかない・・・のとは違って、AMCをはじめとした草の根トーナメントがあちこちで開かれている・・・・のは今のとこ関東くらいか。とにかく楽しみに来たぜ~、でウェルカムな土壌がさらに広まりつつある。
実にいいじゃん。レガシー。
自分みたいな復帰組にも、そしてフェアリーやフィッシュ(大昔回してたヨ・・・w)みたいなスタン+αで現在バリマジックやってるッス組にも受け皿があるのは、うん、最高なんじゃね?いやホント。そう思うわw
とまぁ、おのぼりサンがナニ熱くなってんすかー(笑)的にまくしたてたところでおしまいにしとけばいいとは思うんだけど、あと1回だけグダグダ続けさせてください。サーセンwww
つづく
サイタマとマジックと僕 その2
2009年2月11日 MTG回顧 コメント (2)※前日記の続きです。
ミラージュのプレリトーナメントが終わったあと、シールド戦に俄然興味が沸いた(ドラフトの存在をまだ知らない)ので発売後にスターターとパックを買って友人に鼻息荒く「シールドやろうぜwww」などと迫ったものの・・・待っていたのは友人の半引退宣言。つまるところ持ってるカードを使ってまったりと遊べればおk、ってことだった。早くも新セットが登場することによる金銭的な圧迫が辛い、という考えになってしまったようで。
結局のところ当人の散財先として優先度が高くなかった。当時MTGに入る過程として主流だったと思われるTRPG組は「本職」そっちのけでMTGにかまける時間も金銭もなかったようで。ましてや他の散財先も枚挙するのに暇がない大学生とくりゃ~・・・である。
しかしそんな事情は察せられてもこちらにとっては大事件。一応相手はしてもらえたものの、如何せんマジックに対する温度差が離れてしまっていた。エロゲ兄弟(※お互い違うジャンルの作品を買いあって共有する。ちなみに当時友人が葉鍵系・俺リバ原系wwwww)だったのに!?
それからはもっぱら自分の作ったデッキを友人に渡し、回してもらうってな関係に。こちらはこちらでカード資産はそれなりに増えていってもたかが知れていた。そして友人との資産差はマジックに対する温度差へと繋がっていく。そろそろ新しい環境が必要な時期になっていた。渋谷DCIがオープンしたのがこの年の11月。少しずつ各地でマジックトーナメントが産声をあげ始めていた頃。
明けて1997年。八王子杯の登場と共に自分のマジック環境も変わっていく。第3回の参加が自分にとって初の大規模スイス形式トーナメントだったかと。その頃には各地でデュエルスペースを持ったショップが出来はじめており、自分の行きつけは八王子マジックフォーチュン。人見知りが激しいのでなかなか周りとつるめなかったが、八王子杯に参加し続けるうちに少しずつ知り合いができていった。
八王子杯は素晴らしいトーナメントだったが問題点が一つ。「人気がありすぎて定数オーバーで参加できない」ことがしばしばあったw 予約制もなかったため、当時埼玉から八王子に通っていた自分にとって受付は鬼門だった。少なくとも4回は受付ではじかれた記憶がある。受付時間ギリギリに到着していたわけではない。正にマジックユーザーがトーナメントに飢えていた頃で、文字通り殺到していたわけだ。・・・これは今のAMCに通ずるものがあるかとw
そして八王子杯で対戦の経験を積んでいくと更なる練習の必要性・・・というかもっとマジックをどっぷりやりたい要求に駆られるのだが、直近のデュエルスペースまで片道1時間半では怠惰な大学生の自分にはモチベーション的にキツく(ましてや同年代の仲間ができていなかったw)地元にショップが出来ればな・・・などと常々思っていた。
そんな中、日本マジック、ひいてはTCGの黎明期だったことでとうとう地元にもショップが登場。最初は確かKスクエアビルの2階だったと思う。店名は忘れた。デュエルスペースは8席程度だったかと。そして当然そこは高校生に占拠されていたw 一応適度に絡んでいたと思う。
そして念願の6人掛けテーブル×6を完備したスペース@黒田書店の・・・アレは何だ?倉庫跡?w がオープン。1998年だと思う。テンペスト発売前あたり。当然入り浸ることに。
ここでようやくマジックをみんなでわいわい楽しむ環境を手に入れた感じだった。ただ、周りの知り合いである高校生たちにはまだトーナメントの敷居は高く、なんで金払ってまで・・・てな反応が多かったように思う。なのでトーナメントに参加する時は相変わらずピンだったなw そんななか「俺つえーし!おまえらザコじゃね?」と鼻息荒かった当時高校生のカシマ(後のPTベネチアTOP8)を初めてのトーナメントであるファイナルズ予選へと連れて行ったりもした。・・・MoMaの冬だったわけだけどw 1998年の冬。
明けて1999年。残念ながらまた環境が変化する。今度は自分の都合で。・・・就職だった。
つづく (まだやんのかw
ミラージュのプレリトーナメントが終わったあと、シールド戦に俄然興味が沸いた(ドラフトの存在をまだ知らない)ので発売後にスターターとパックを買って友人に鼻息荒く「シールドやろうぜwww」などと迫ったものの・・・待っていたのは友人の半引退宣言。つまるところ持ってるカードを使ってまったりと遊べればおk、ってことだった。早くも新セットが登場することによる金銭的な圧迫が辛い、という考えになってしまったようで。
結局のところ当人の散財先として優先度が高くなかった。当時MTGに入る過程として主流だったと思われるTRPG組は「本職」そっちのけでMTGにかまける時間も金銭もなかったようで。ましてや他の散財先も枚挙するのに暇がない大学生とくりゃ~・・・である。
しかしそんな事情は察せられてもこちらにとっては大事件。一応相手はしてもらえたものの、如何せんマジックに対する温度差が離れてしまっていた。エロゲ兄弟(※お互い違うジャンルの作品を買いあって共有する。ちなみに当時友人が葉鍵系・俺リバ原系wwwww)だったのに!?
それからはもっぱら自分の作ったデッキを友人に渡し、回してもらうってな関係に。こちらはこちらでカード資産はそれなりに増えていってもたかが知れていた。そして友人との資産差はマジックに対する温度差へと繋がっていく。そろそろ新しい環境が必要な時期になっていた。渋谷DCIがオープンしたのがこの年の11月。少しずつ各地でマジックトーナメントが産声をあげ始めていた頃。
明けて1997年。八王子杯の登場と共に自分のマジック環境も変わっていく。第3回の参加が自分にとって初の大規模スイス形式トーナメントだったかと。その頃には各地でデュエルスペースを持ったショップが出来はじめており、自分の行きつけは八王子マジックフォーチュン。人見知りが激しいのでなかなか周りとつるめなかったが、八王子杯に参加し続けるうちに少しずつ知り合いができていった。
八王子杯は素晴らしいトーナメントだったが問題点が一つ。「人気がありすぎて定数オーバーで参加できない」ことがしばしばあったw 予約制もなかったため、当時埼玉から八王子に通っていた自分にとって受付は鬼門だった。少なくとも4回は受付ではじかれた記憶がある。受付時間ギリギリに到着していたわけではない。正にマジックユーザーがトーナメントに飢えていた頃で、文字通り殺到していたわけだ。・・・これは今のAMCに通ずるものがあるかとw
そして八王子杯で対戦の経験を積んでいくと更なる練習の必要性・・・というかもっとマジックをどっぷりやりたい要求に駆られるのだが、直近のデュエルスペースまで片道1時間半では怠惰な大学生の自分にはモチベーション的にキツく(ましてや同年代の仲間ができていなかったw)地元にショップが出来ればな・・・などと常々思っていた。
そんな中、日本マジック、ひいてはTCGの黎明期だったことでとうとう地元にもショップが登場。最初は確かKスクエアビルの2階だったと思う。店名は忘れた。デュエルスペースは8席程度だったかと。そして当然そこは高校生に占拠されていたw 一応適度に絡んでいたと思う。
そして念願の6人掛けテーブル×6を完備したスペース@黒田書店の・・・アレは何だ?倉庫跡?w がオープン。1998年だと思う。テンペスト発売前あたり。当然入り浸ることに。
ここでようやくマジックをみんなでわいわい楽しむ環境を手に入れた感じだった。ただ、周りの知り合いである高校生たちにはまだトーナメントの敷居は高く、なんで金払ってまで・・・てな反応が多かったように思う。なのでトーナメントに参加する時は相変わらずピンだったなw そんななか「俺つえーし!おまえらザコじゃね?」と鼻息荒かった当時高校生のカシマ(後のPTベネチアTOP8)を初めてのトーナメントであるファイナルズ予選へと連れて行ったりもした。・・・MoMaの冬だったわけだけどw 1998年の冬。
明けて1999年。残念ながらまた環境が変化する。今度は自分の都合で。・・・就職だった。
つづく (まだやんのかw
サイタマとマジックと僕 その1
2009年2月10日 MTG回顧 コメント (2)まぁアレです。物事において「2回目」ってのは割かし重要ってやつ。
まずは初っ端に挨拶して、2回目で方向性をアピールしていく…みたいな?
お題は「レガシー方面」
自分的にとっては難易度高め。そりゃねぇ、へっぽこが現環境に物申す!とかやっても「あぁ?レガシー動画でも見てろやオゥ」みたいになっちゃう。やばい。
デッキリスト書いてみても「千葉では1-4乙ッシターwwwいーじゃないスか1勝できて(笑)え?バイさん?相手はどっかの外人さんっすかー?wwwwwww」みたいになっちゃう。やばい。
てかもうね、ネタバレしちゃう。目的。・・・目的!?
一応「埼玉におけるレガシーの普及」ってのを脳内で掲げてみたわけ。お、それっぽくね?
ほら、レガシースレにレポあげちゃうとか必死のアピールなわけですよ。健気にもw
あとはまぁ……アレ。個人的なリハビリ?公衆面前でオナニーするための。結局それか。
さて、軽めのジャブで早速周囲の腰が引けたところでw
日記のコメからちょっと過去バナをしてみたくなった。マジックを始めてからそれなりに長いしおっさんだし、ちっとは書いてもいーんじゃねーの?とか思ったのね。
一応レガシーっぽいことに繋がるとこにもっていく予定。
1996年の4月くらいかな。大学の友人にマジックを教えてもらった。
初の日本語セットである4版がもうすぐ出るぞ~ってな頃。初パックは4版英語でレアは凄腕の暗殺者。10版にもあるんだなコレ。
どーやら青はややこしい、と速攻で見切りをつけて赤緑を組ませてもらう。フィニッシャーは大喰らいのワーム。甲鱗様じゃなかったw 血の渇きとジャイグロの使いどころを考えるのが楽しかった希ガス。
大学は東京と神奈川の境にあった。八王子から横浜線。
暇を見つけては新宿に出てイエサブのハイパーアリーナへ。信じ難い広さのデュエルスペースだったな。渋谷のDCIはまだ存在してない。赤緑が徐々に増えるカード資産と共にランデスへと変化していく。カープルザンの森が当時の憧れw 96年世界選手権でNAC氏のステロイドが活躍したからね。高騰&売ってなかったんだわ。
そんな感じでしばらくは大学or新宿でマジックをしてた。相手は教えてくれた友人のみ。情報源の少なかった時代で、翻訳本やRPGマガジンを読みこんでアイデアが浮かぶとデッキを組み替えて…ってな日々。できれば新宿で仲間を増やせれば良かったのだけれど、正直敷居が高かったイメージがある。デュエルしてる連中はA定食からヒム連打&ネクロでゴガガガガとドローとかぶっちゃけ怖かったw そんなだから雑誌に登場する人物はアイドルwで赤緑使いの自分はNAC派(何
んでそういう方々を生で見る機会(笑)を探していたら見つけたのが、ミラージュのプレリ大会。ハガキで応募して「抽選」で当たれば参加できるかも?っていうw
無事当選して大喜び。前日イエサブでネットから入手したカードリストをプリントしたやつを1000円で買って(ここでネットの重要さに気付くw)わくわくしながら参加……なんだけど、大会内容が330名によるシングルエレミ!www
そんな中での初シールドでは結果は当然1没。知り合いもいないのであとはただ観戦モード。ちなみにリミテッドってなに?みたいな頃。勝ち上がるのは自ずと強豪さんたち。かのTOSHIKI伝説である「卑屈な幽霊にデッチャで除去」はここで生まれたとされているw まぁ勝ち上がり戦じゃ弱パック引いたらそんくらい必死こかねーと勝ち上がれなかったのかもな…と想像。TOP4には残れてなかったけどねw 決勝は当時最強高校生と噂の石田格氏と船越氏。当時の感覚で表現するなら「噂の石田クンが淡々と3/3トラとかでボカボカ殴りつつ相手のエンドに『テリムトーの投げ矢で1点本体』とかやってたら勝っちゃった」みたいな感じw ともあれ強豪達の対戦を生観戦したことによって、要するに「競技マジックに対する憧れ」ってのが芽生えちゃったんだな。このあと一つの事件が起こるとも知らずに。
つづく
ってかサイタマ出てきてねーじゃんwww
まずは初っ端に挨拶して、2回目で方向性をアピールしていく…みたいな?
お題は「レガシー方面」
自分的にとっては難易度高め。そりゃねぇ、へっぽこが現環境に物申す!とかやっても「あぁ?レガシー動画でも見てろやオゥ」みたいになっちゃう。やばい。
デッキリスト書いてみても「千葉では1-4乙ッシターwwwいーじゃないスか1勝できて(笑)え?バイさん?相手はどっかの外人さんっすかー?wwwwwww」みたいになっちゃう。やばい。
てかもうね、ネタバレしちゃう。目的。・・・目的!?
一応「埼玉におけるレガシーの普及」ってのを脳内で掲げてみたわけ。お、それっぽくね?
ほら、レガシースレにレポあげちゃうとか必死のアピールなわけですよ。健気にもw
あとはまぁ……アレ。個人的なリハビリ?公衆面前でオナニーするための。結局それか。
さて、軽めのジャブで早速周囲の腰が引けたところでw
日記のコメからちょっと過去バナをしてみたくなった。マジックを始めてからそれなりに長いしおっさんだし、ちっとは書いてもいーんじゃねーの?とか思ったのね。
一応レガシーっぽいことに繋がるとこにもっていく予定。
1996年の4月くらいかな。大学の友人にマジックを教えてもらった。
初の日本語セットである4版がもうすぐ出るぞ~ってな頃。初パックは4版英語でレアは凄腕の暗殺者。10版にもあるんだなコレ。
どーやら青はややこしい、と速攻で見切りをつけて赤緑を組ませてもらう。フィニッシャーは大喰らいのワーム。甲鱗様じゃなかったw 血の渇きとジャイグロの使いどころを考えるのが楽しかった希ガス。
大学は東京と神奈川の境にあった。八王子から横浜線。
暇を見つけては新宿に出てイエサブのハイパーアリーナへ。信じ難い広さのデュエルスペースだったな。渋谷のDCIはまだ存在してない。赤緑が徐々に増えるカード資産と共にランデスへと変化していく。カープルザンの森が当時の憧れw 96年世界選手権でNAC氏のステロイドが活躍したからね。高騰&売ってなかったんだわ。
そんな感じでしばらくは大学or新宿でマジックをしてた。相手は教えてくれた友人のみ。情報源の少なかった時代で、翻訳本やRPGマガジンを読みこんでアイデアが浮かぶとデッキを組み替えて…ってな日々。できれば新宿で仲間を増やせれば良かったのだけれど、正直敷居が高かったイメージがある。デュエルしてる連中はA定食からヒム連打&ネクロでゴガガガガとドローとかぶっちゃけ怖かったw そんなだから雑誌に登場する人物はアイドルwで赤緑使いの自分はNAC派(何
んでそういう方々を生で見る機会(笑)を探していたら見つけたのが、ミラージュのプレリ大会。ハガキで応募して「抽選」で当たれば参加できるかも?っていうw
無事当選して大喜び。前日イエサブでネットから入手したカードリストをプリントしたやつを1000円で買って(ここでネットの重要さに気付くw)わくわくしながら参加……なんだけど、大会内容が330名によるシングルエレミ!www
そんな中での初シールドでは結果は当然1没。知り合いもいないのであとはただ観戦モード。ちなみにリミテッドってなに?みたいな頃。勝ち上がるのは自ずと強豪さんたち。かのTOSHIKI伝説である「卑屈な幽霊にデッチャで除去」はここで生まれたとされているw まぁ勝ち上がり戦じゃ弱パック引いたらそんくらい必死こかねーと勝ち上がれなかったのかもな…と想像。TOP4には残れてなかったけどねw 決勝は当時最強高校生と噂の石田格氏と船越氏。当時の感覚で表現するなら「噂の石田クンが淡々と3/3トラとかでボカボカ殴りつつ相手のエンドに『テリムトーの投げ矢で1点本体』とかやってたら勝っちゃった」みたいな感じw ともあれ強豪達の対戦を生観戦したことによって、要するに「競技マジックに対する憧れ」ってのが芽生えちゃったんだな。このあと一つの事件が起こるとも知らずに。
つづく
ってかサイタマ出てきてねーじゃんwww